高梁はもうすっかり夏である。
「働かざる者食うべからず」という古い言葉がある。なるほど至言である。アフォリズムである。
勤労を讃え怠惰を戒める言葉に聞こえるけれど一方で、飢える覚悟があれば無理に働く必要はない、というどことなく優しげな、それでいてハードボイルドすら感じさせる意味にもとれないことはない。深い。筆者の理想は働かないで食うことである。
しかし理想はあくまで理想であって、理想というものが願えばそれだけで適っちまうような簡便な目標であるとしたなら世の中は理想の適った人々の満ち溢れる理想郷にとっくになっているはずなのであって、人から聞くにどうやらいま現在の世の中が理想郷と呼ぶに値しないらしいということは、やはり理想というのはそう簡単に適うものではないようである。これはたいへん残念である。
だから筆者も食えなくなるのは非常に困るので仕事をしなければならない。飢えるだけの覚悟は持ち合わせておらぬ。どころか、できることならたまにはスーパーで1枚あたり98円で特売されている鶏のむね肉以外の肉も食してみたいとすら思う。
それで仕事を探しに出かけてみるとちょうど近くのぶどう園でアルバイトを探していたという。こいつはいい。渡りに船とはこのことである。
高梁では何が有名といって、名産品は数あれど、その中でも代表格はピオーネ、つまり高級種なしぶどうであると筆者は考えている。今回、筆者が作業をした畑で作っているのはピオーネではなかったようではあるものの、しかしいずれにせよぶどうである。高梁市で生活する以上、多少なりぶどうに携わった経験はしておいた方がなんとなく良いような気がした。
で、今回筆者が手伝わせてもらったのは「芽かき」。
ぶどうの枝から芽生えつつある新芽を、はさみを用いてばっつんばっつん切り落とす、まあ説明する分にはシゴク容易な作業である。こうすることで実のなる枝に栄養が集まって、美味しいぶどうができるらしい。
ところがこれがやってみると、新芽を探すのもそれを切り落とすのも、終始上を見ながらの作業であるから首及び肩の筋肉が非常に緊張する。しかも枝がちょうど筆者の顔の辺りにあるから絶妙に腰及び膝を曲げて高さを調整しつつ、首だけは見上げる形でばっつんばっつんはさみを閉じて開いてしなければならぬ。なかなかどうして重労働である。
農家の人はどんどん仕事を進める。素晴らしい速度である。いかにも熟練、という感じがする。(後日、別の人に「芽かきってしんどいっすね」と言ったらちょっと笑われた。まだまだ序の口であるらしい)
もちろん辛いことばかりではない。まずぶどうの枝の下というものは緑の楽園みたいなものである。枝及び葉の間から差し込む太陽の光は非常にきれい。
そして何より、筆者のこの作業がすなわち、いずれおいしいぶどうそのものなのである。達成感でもあるけれど、何より自分が頑張れば頑張るほど、いずれ収穫を終えた頃においしいぶどうが食べられるのだと考えれば、多少の苦労がなんだと云うのか。
筆者は一日の作業を終えた。
「働かざる者食うべからず」。なるほど金言である。ぶどう園ではしっかり働かないとおいしいものを作れないし食べられない。でも、逆をいえば、一生懸命働けばおいしいものは作れるし、自分でいずれ食べることもできるのだということなのだ。筆者はぶどう園の方から一日分の給料を頂き、そう思った。
田舎は仕事がないとよく聞くが、案外あるものなのである。
その給料で日本呪術の本を買った。よって今夜も鶏むね肉である。