先日、倉敷市玉島の朝市に行ってきた。玉島は昭和レトロの残る町、ってんで、昔っぽい喫茶や町並みを残しているなかなかこじゃれたいいところだ。
僕らはそこで鉄板焼きを売ったのだけど、高梁市から来たのは僕たちだけじゃなかった。子ども神楽、高梁市役所の高梁紹介コーナーと、とにかく高梁市が激プッシュされていた。
なんでだろう。僕は思った。高梁市と玉島はなんだか組んでいろいろ企画をしているみたいだし、まるでサイモンアンドガーファンクルみたいなコンビネーションなんだ。なぜ。
高梁市を流れる高梁川は倉敷をはじめ、総社、新見と繋がっていて、ここら一帯は「高梁川流域」として一括りにでき、実際いろいろ繋がりも深いのだけど、しかしこと玉島という一地域に関していえばここらの中でもナンバーワンに関係が強い感じがする。
どういうことか調べてみたら、あった。
玉島は備中松山藩の、「飛び領地」だったらしい。
「飛び領地」というのは、インターネットで調べてみると「周りを囲んでいる他国とは文化的にはっきりと異なっている、包囲された領土」のことらしい。つまり地続きでない領地のことか。
江戸の頃の高梁市界隈が備中松山藩の領地だったことは知っていたけど、飛び領地というものがあったとは知らなかった。
他にも何かあるに違いない、とそう睨んでさらに調べてみると、またあった。
それが熊田 恰(くまた あたか)である。
この熊田という人が誰かというと幕末の人で、備中松山藩の藩士。
鳥羽・伏見の戦い後、朝敵となってしまった。松山藩。領地(つまり今の高梁市と玉島)を岡山藩に包囲されてしまい大ピンチ、という時に、鳥羽・伏見の戦いから帰ってくる道中だったこの熊田 恰が玉島で自刃。結果、熊田 恰一人が責任を被る形で、同行していた150人の部下と、戦禍を被る寸前だった玉島を掬ったらしい。
すごい人がいたものである。
なるほど。玉島と高梁市の友好関係の謎が分かった気がする。
ちなみに熊田 恰のお墓は高梁市の道源寺にあるらしい。
でも重要だと思うのは、昔は同じ藩だったとしても、結局現在は別の自治体だし、車に乗っても一時間とかかかるということ。領地的に両地区が繋がっていたのは百年以上前のことなのだ。
それでもいま現在、高梁と玉島の間で強力な連携ができているのだとしたら、それは両地区の現代に生きる人が築いた友情の力だし、ちょっと昔の人が残してくれた繋がりの成果だと思う。
これからも高梁、玉島がお互い手を取り合って、双方向に良い結果をもたらす友好関係を続けていけたら素晴らしいことだと思いました。
【高梁商工会議所HP(高梁~玉島一体観光について)】
【道源寺 地図】