故郷(東京)の友人知人に高梁市という所に住んでいると言うと「そりゃいい所で暮らしているなあ」と返ってくる。曰く、「空気がきれい」「水がきれい」「わたしきれい」と。
しかし筆者は哀しい星の下とにかく何でもまずは疑ってかかる気の毒な性分に生まれついてしまっているのであり、人に「きれい」「きれい」と言われたとてそれを無条件に信じることはできない。検証作業が必要である。
がために高梁の水をペットボトルに汲んで東京まで行ってきた。真水ではない。腹を下す危険性を考慮し水道水である。で、こいつを東京の水道水と比較してみようと思う。
豆腐はにがりと水で味が決まるという。他の食材もテレビのコマーシャルとかでよく「良い水を使って作りました」などと宣伝されており、どうやら水を変えれば料理の味も変わるらしい。
ならば、ということで購入したのが「ねるね」(ソーダ味)である。
この「ねるね」、中にはいくつかの粉末が入っているのだけれど、これに水を加え混ぜ合わせることで味の良い菓子になる。
水が違えばその完成形の食味にも差異が出るのに違いあるまい。さっそく実験に取りかかる。
実験は筆者が学生時代に勤務していた東京都大田区蒲田の飲食店aで行う。
まず菓子のもとになる粉末xを容器にあけて、「ねるね」甲には東京の水、もとい店員さんに持ってきてもらったおひやを、乙には高梁の水をそれぞれ加え、ぐりぐり混ぜる。それからもう一つ、付属している粉末yも甲・乙それぞれに混入。この時点では見目に異なる点は見受けられない。
「ねるね」の調理、及び実食にあたっては筆者の友人に協力を要請した。高梁に関係の薄い第三者に判断をゆだねることで公正な結果を得ようとの配慮である。科学的精神である。
友人のI橋君は調理関係の職に就いており、従って舌の感覚が鋭敏であることが期待される。
I橋君にまず甲(東京水)を食べてもらう。ちなみに目はつぶって食べる。その行為に意味があるかないかという話ではない。科学的精神なのだ。
で、本来なら次は乙(高梁水)を食べてもらうところなのだが、我々一同(筆者とI橋君を除く友人)に悪戯心が生じ、また甲(東京水)を食べてもらった。むろんI橋君には黙っている。乙(高梁水)は三回目に食べてもらう。つまり、
1、 甲(東京水)
↓
2、 甲(東京水)
↓
3、 乙(高梁水)
この順番で食べてもらったのである。
するとどうであろうか。1回目と2回目(いずれも東京水)を食した際には「何も変わらない」と言っていたI橋君であるが、3回目、高梁の水で作ったねるねを食した途端、首を傾げだした。曰く「これ、なんか違う気がする」と。
断っておくがI橋君は視覚情報を遮断されており、1、2回目のねるねが同一であることも知らないし、3回目でようやくこれまでと違うねるねを食べさせられたことも知らないのである。
しかし本当であろうか。インチキではないか。
筆者は身を乗り出して聞いた。「何が違うのか」と。
I君は言った。「いやあ、分からん」
萎えた。
どうやら何かが違うことは明白だが、具体的にどこがどのように異なっているのかは自分でも分からず、感覚はしていても説明はできぬらしい。I橋君は身振り手振りを加えながら説明しようと奮闘してくれたが残念なことに筆者にはタコが踊っているようにしか見えない。
ここで筆者たちも甲・乙を食べ比べる。確かに何か違う気がする。でも何かは分からない。
「混ぜ方が甲・乙で違ったんだ」とか「ていうか高梁水が常温だったのに東京水は冷たいおひやの水だったんだから味も変わるだろ」とか言う者がいたがそんなのは誤差の範囲内である。うるさい。無視する。
高梁に帰った筆者は、再び「ねるね」(ぶどう味)を用いて検証作業を行った。むろん、東京の水道水は出立の際にペットボトルに汲んで持ち込んだのである。
やはりどこか違うような気がしないでもない。筆者はこの結果を地域で大々的に公表した。しかし皆さんからの反応は芳しくない。曰く、「具体的に何がどう違うの?」と。
うまく説明する言葉を持たぬ筆者は、それでも必死に身振り手振りで説明しようとタコ踊りに踊っている。